3/23/2023

大分まち歩き③住居表示番外編⓷都町Ⅱ

新町名誕生60年③都町その2 

鉄と石油と夜の街

     

 「新町名誕生60年②都町、栄町、そして」の続編です。

 1962(昭和37)年にできた住居表示に関する法律に基づき、大分市でも翌1963(昭和38)年に新住居表示・新町名の第一号が誕生しました。それが中央町であり、都町であり、荷揚町や府内町であることは前回までに書いています。
      
 前回は「都町」の名前の由来を探ったのですが、残念ながら中途半端な結果に終わってしまいました。

 今回はもう少し視野を広げて「都町誕生」当時の大分市について見てみたいと思います。前回のブログで最後に紹介した「夢町人の街 おおいた都町物語」(松尾健児著 西日本新聞社発行)の引用から今回は始めます。

 「おおいた都町物語」に当時の木下敬之助・大分市長が序文を寄せています。その書き出しの文章が“夜の街”としての都町の成り立ちを簡潔に説明しています。少し長くなりますが、引用してみます。

 序文の見出しは「都町、青春の日々」。「大分市都町は、新産都大分の建設とともに発展してきた歓楽街です。昭和38、39年頃、ネオンが灯り始め、新日鉄大分、昭電などの立地が進むとともに賑わいを増して、別府-大分間の電車が消えていった昭和47年頃は特に集中的に発展、現在(平成4年)の都町のたたずまいができていったと記憶します」

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)


 キーワードは新産都大分。新産都は新産業都市のことです。
1962(昭和37)年5月に新産業都市建設促進法ができて、大分市を中心とした地域は1964(昭和39)年1月に新産都に指定されました。

 新産都建設促進法の目的は「都市と地方の格差是正」でした。大都市への人口や産業の過度な集中を防ぐため、地方の開発発展の中核となる新産業都市の建設を促す。「国土の均衡ある発展」を目指す国の政策の一環でした。

 どの地域も経済成長の恩恵をもっと受けたい、豊かになりたいと思っていました。工業化がその手っ取り早い手段ならば、新産都の指定を受けようと多くの自治体が手を挙げ、国に対して激しい陳情合戦が行われたのも当然でしょう。
 
 大分にも指定を勝ち取るために動いた人々がいました。例えば木下郁、上田保、平松守彦の3氏。木下氏は大分県知事、上田氏は大分市長、平松氏は国側の通産省(現経産省)の官僚でした。ちなみに平松氏は上田市長の娘婿で、後に大分県知事となります。

 蛇足ですが、上田保氏はアイデア市長として知られ、前述の「夢町人の街 おおいた都町物語」の著者は、上田市長が都町の「名付け親」だった可能性もあると思ったようです。

 仮にそうだとしたら、どんな思いで「都町」という新町名を提案したのでしょうか。都町が「夜の街」「歓楽街」に変わることを予測した上で新たな町名を考えたのでしょうか。
 

 60年前と現在とで一番変わったのは大分の海岸線と言えるでしょう。1号から7号までの埋立地があります。海岸線の埋め立ては新産都指定前から始まっていました。※
上の写真は大分県発行の「大分県の新工業地帯」(1968年)から抜粋し、筆者が加工を施しました。

 埋立地の広さは1号が約123ha(ヘクタール)、2号が約173ha、最も広い3号は530haあります。このほか、4号が約67ha、5号が約79haあります。ここまでが一期計画で、二期計画は6号が243ha、7号が233haでした(「大分県の新工業地帯」より)。

 合計すると1,444haになります。ちなみに東京ディズニーランドは広さ51ha、東京ディズニーシーは49haだそうです。東京ディズニーランドだけなら4号地や5号地だけで十分に用地が足りるということになります。

 それほど広大な土地が海岸部に出来上がったわけです。

 この臨海工業地帯をテコに大分の発展を図る。そう考えた上田、木下、平松各氏の奮闘を描いたのが「ロマンを追って 元大分市長 上田保物語」(中川郁二著、2003年、大分合同新聞社)です。デジタル版があり、ダウンロードして無料で読むことができます。

 物語の主人公は上田です。大分の海を埋め立てて工業地帯を作るという発想はもともとあったそうです。大分市長だった上田はそれを実現しようと大分県に働きかけますが、県の動きは鈍かったといいます。それが大きく変わる出来事がありました。1955(昭和30)年の木下郁知事の誕生です。

 木下は県の財政を立て直すために企業誘致、工業開発を進め税収の拡大を図ろうとします。そのために上田が進めようとしていた臨海部の開発に注目することになりました。

 右上の写真は大分城址公園にある木下郁・上田保先生像
です。2018年(平成30)年3月に撮影しました。

 県と市の足並みが揃ったところで臨海工業地帯づくりが本格化します。その動きを「おおいた文庫⑤新産都おおいた」(斉藤事著 1981年アドバンス大分発行)から少し引用してみます。

 1957(昭和32)年、1号地の造成に要する漁業権の買収交渉を皮切りに、翌58(同33)年春には大野川の工業用水取水調査にかかり、同年9月から1日12.5万トン取水の大分(鶴崎)臨海工業用水道の建設に着手した。59年(同34)年9月、大分川から大野川までの海岸1,000haの埋め立てに着工、第一期計画の産業基盤整備と施設の建設に着手した。

 次いで埋立地への企業誘致が試みられ、1960(昭和35)年には九州石油、61(同36)年には富士製鉄(日本製鉄)、64(同39)年には昭和電工とスムーズに立地企業が決定した。
 

 こうして、この臨海工業地帯建設は、わずか数年足らずのうちに鉄と石油の二大工業立地という成果を見たのである。

 これだけでも新産都指定の条件は十分という気がしますが、さらにもう一手打たなければなりませんでした。

 それが隣接市町村との広域合併でした。新産都の指定を受けるには当時の大分市では財政力や人口などの条件を満たすことができなかったそうです。

 上田は「合併促進協議会」を発足させ、その音頭を取った。埋立地のすぐ背後地にある鶴崎市は合併に反対したが、財政上の優遇措置を導入することで折り合いがつき、1963(昭和38)年3月、大分、鶴崎2市と大南、大分、坂ノ市3町、大在村の計6市町村が合併し、人口21万4,886人の新大分市が誕生した(「ロマンを追って 元大分市長 上田保物語」より)。

 「ロマンを追って」の著者は続けて「後に新産都市の“優等生”といわれた大分・鶴崎臨海工業地帯の壮大な計画とその実現は、(上田)保と木下の合作といえる」と結論づけています。木下と上田2人のリーダーの参謀役を務めたのが平松ということになります。


 大分の海岸線に一大コンビナートを築き上げるために多くのヒト、モノ、カネが投入されました。土地、水、道路、住宅。さまざまな社会基盤の整備が急がれました。工場建設も急ピッチで進められました。忙しく働く人々の憩いの場としての“夜の街”も必要とされたでしょう。

 経済成長を追い求める人々の旺盛なエネルギーがあふれていた時代だったと改めて感じます。
 

※追記
 
 大分市報第306号〈1959(昭和34)年4月1日〉に上田市長の話がありましたので、かいつまんで紹介します。

 大分市には工場群が立地できるような広大な土地がない。そこで私(上田)は昭和27(1952)年から大分、鶴崎間の地勢を調べて、この海岸を埋め立て、これを工業地帯として工場を誘致する案を得た。

 県にも調査研究を行うように申し入れたが、研究の成果をあげるに至らなかった。30(1955)年木下知事となって再び提案したところ、同知事はこの案を県にとっても起死回生の唯一の途であるとし、ぜひこれを実現しようと賛同された。

 通産省(現経産省)の産業施設課の工場立地の主任が、大分市出身の平松守彦氏であるので、この計画進行には極めて好都合であった。即ち同氏のあっ旋によって日大教授鈴木雅次氏(工博)、東京商大(一橋大)教授佐藤弘氏(理博)等の現地視察となり、その結果は埋立工事の利便と用水の豊富とを兼備した無比の地帯であるとの結論を得た。

 上田市長の話はこうした経過を説明したうえで、大分市の発展は臨海工業地帯の造成から始まり、工場群の建設をもって、経済活動の根幹とし、大分市だけに限らぬ全県下の生産を増強し、失業問題の解決、文化施設の完備等による住民の幸福を増進する、などと結んでいます。
 


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